石川裕人百本勝負 劇作風雲録

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第十回 アトリエ劇場引っ越し。

 「十月劇場」解散の噂は噂にしか過ぎず、’91年2年ぶりにテント芝居をやることになる。35本目三部作時の葦舟・The Reedoship Saga第一巻は未来篇「絆の都」。この三部作はトールキンの「指輪物語」をモチーフにしたSFスペクタクルで全3巻で500枚弱の大長編だった。宇宙征服の指輪を守護するために未来・過去・現在と時空の旅をする家族(コンピュータ化した父、霊的存在の母、ヒーローである息子、大猫)の物語は自分としても畢生の戯曲と自負している。この芝居で三度目の松本現代演劇フェスに参加した。松本フェスは「又三郎」で自主参加公演だったが2回目から上演料が支払われる招聘公演になっていた。この頃の「十月劇場」はテント芝居はお手の物で自分たちの流儀で野外演劇を楽しみ始めていた。もちろん経済的にきついことに変わりはなかったが。



  

   本火をふんだんに使ったスペクタクル芝居「絆の都」。


           

         舞台は2面舞台で花道で二つの舞台をつないだ。


 そして前年私は宮城県芸術選奨新人賞を受賞した。


 36本目石川裕人事務所のプロデュース公演のための戯曲「隣の人々 静かな駅」。(上演は’92年)前年に死んだ愛猫に捧げた戯曲でファッションビル・フォーラスホールとの提携公演だった。この芝居を観たお客さんの中には石川はもうすぐ死ぬんじゃないか?という感想を持った方も居たらしい。戯曲は死に逝く妹を迎えに来る姉たちの物語で濃厚にノスタルジーを意識していた。


         


 ’91年は「十月劇場」旗揚げ10周年だったが、’92年、アトリエ劇場を出ることになる。原因は色々あったが、家賃滞納が大きな要因だった。度重なる旅公演は私たち劇団員の個人生活を圧迫し、団費滞納者が増えそれがそのまま家賃滞納につながった。しかし、私たちはめげずに次の稽古場兼劇場を探しに入る。安く便利な場所はすぐに見つかった。それが後の“OCT/PASS”STUDIOに継続される河原町稽古場である。私たちは定禅寺アトリエの滞納家賃を分割で支払い、新稽古場も借り受けるという綱渡りを決行する。

 こんなことをやっていたのでは公演なんかやれるわけがない。だから’91年は2本。’92年は新稽古場柿落とし公演作37本目「ラブレターズ●緘書●世界(あなた)の涯へ」と構成台本(はカウント外)「夜の言葉」しか書いていない。「ラブレターズ」は世界が変容した1989年を批評する抽象的で難解な戯曲だったが、ソールドアウトが出るほどお客さんが入った。


      

 情宣デザインはこの「ラブレターズ」から大宮司勇さんになった。

 
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第九回 年間6本書く。

 ワープロ効果はすぐに現れた。ワープロで書き始めた翌年’89年に、年間6本の戯曲を量産することになる。27本目「ラストショー」は山形県寒河江市にあった寒河江映画劇場のために書き下ろした戯曲。古い映画館と映画そして芸能者へのオマージュ劇である。この戯曲には’77年に書かれ未上演だった「紅蓮妖乱」のプロットを援用している。前年「又三郎」でテント全国公演をしているのにこの芝居でも寒河江へ遠征している。もちろん地元の方々の熱い受け入れ体制がなければ出来なかった。28本目は’87年にコラボした小畑二郎氏と今田青春氏が「劇団喜劇城」を旗揚げしたのでご祝儀書き下ろし「コメディアンを撃つな!!」そういえばこの戯曲のクレジットはココ・ロノボス名義だった。そしてここから連続で4本の戯曲を執筆する。これには旅公演も絡んでいた。圧倒的なパワーを劇団も持っていた時期だからできたアクロバットのような日々が始まる。


            


      


 全裸姿ははだか道=小畑次郎氏である。イズミティの小ホールを借りて秘密裏に撮影された。もう時効でしょう。


 29本目「ラストショー改訂テント版」31本目「じ・えるそみーな」〜フェリーニへ〜、32本目「モアレ」〜映画と気晴らし〜は「映画は判ってくれない」という組曲風にした連作ですべての戯曲が同名異曲である。絶対再演はしないというポリシーは逆に我が首を絞めかねないことではあった。そして同じ芝居だと思ったお客さんが来なかったのは誤算だった。「ラストショー」は昭和の終焉と満州映画会社を通底させた歴史幻想戯曲。松本現代演劇フェス→宮城県丸森町→東京鬼子母神→仙台と怒濤の旅公演。「じ・えるそみーな」は’85年の十月劇場アトリエ柿落とし公演作とは全く違う内容。全編フェデリコ・フェリーニへのリスペクトに満ちあふれた3人芝居。「モアレ」はこれまた’86年のものとは違い、映画の構造を演劇的に分析した学術的(?)戯曲。この芝居も寒河江映画劇場で上演された。映画をめぐる3連続公演は8月から12月まで一刻の休みもなく続いた。


 その間に30本目「三島由紀夫/近代能楽集・集」を仙台市市民文化事業団主催の舞台技術養成講座公演用に書き下ろす。絵永けいの一人芝居だった。これが7月なのでこの1年間ほとんど書いていたことになる。今考えるとどうやって乗り切ったのかわからないが、これが大きな自信となったことは確か。’99年にも年間6本ということがあったが年間5本というのは今後ざらに出てくることになる。


         

 

 しかし、このくらい大量に書き、公演もハードだと反動は訪れる。次の年’90年は2本、そして「十月劇場」自体公演を休止した。疲れたのだ。そして今後もこのペースで行くものかと劇団自体が自問自答し始めたときでもある。

 33本目「斎理夜想」は丸森町のイベント芝居のための戯曲でこれには松島トモ子が出演した。

 34本目「あでいいんざらいふ」は石川裕人事務所公演。小説家島尾敏雄の作品をアレンジした絵永けいと小畑二郎の二人芝居で緊張で張り詰めた舞台と観客席の水を打ったような静けさは今でも伝説の舞台となっている。この時期私はテント芝居のようなケレンの芝居から遠ざかろうとしていた。やめようと思っていたわけではないが、「十月劇場」若手陣に誤解を与えてしまうことになる。若手はプロデュース公演でテント芝居「落日」を打っている。外野席には「十月劇場」解散の噂が流れた。


         

 
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第八回 ワープロで書き始める。

  実にいい加減というか、よくそんなもんでテント屋さんが作ってくれたもんだというか初めて作ったテントは当初支払いのめどが立たなかった。’87年、23本目「虹の彼方に」水の物語三部作最終篇は自前の<銀猫テント>での旅公演で仙台→早池峰(ハヤチネフェスティバル)→福島→山形→盛岡を約3週間かけてまわった。仙台公演楽日の日、テントの代金150万円をどうやって支払うかの会議がもたれる。当時の150万円は結構な金額だ。そこに「十月劇場」の旗揚げメンバーA君が同席していて支払いを肩代わりしてくれることになった。劇団がA君に借金をした。渡りに船とはこのこと。A君は現在も公演のたびに東京から観に来てくれる。もちろんその借りたお金は数年かかって完済している。

 「虹の彼方に」の旅は個人的には過酷だった。仙台公演で高場から飛び降りていた疲労もきていたのか早池峰でのフェスティバルの宴席で右足捻挫をしてしまう。その後松葉杖をついて役者を続けた。冷夏の旅公演だった。

 

           


 その前22本目「ラプソディー」は小畑二郎プロデュース公演への書き下ろし。客演に千賀ゆう子さんを呼んで気合いの入った公演だった。私には珍しい男女の愛憎劇。千賀さんに教えられることが多い実りのある企画だった。

 

           


 24本目小畑二郎氏と当時仙台で活躍していたタレント・今田青春氏のコント・コラボレーション「笑いてえ笑」で本格コントを書き下ろす。


           


 ’88年全国10都市テント公演の制作を決定し、資金稼ぎのための学校公演上演戯曲は25本目「マクベス」。1回公演だったが非常にテンションの高い芝居で東京からわざわざ観劇に訪れたT氏が絶賛してくれた。一人の男に宿った悪夢のような宿怨を描いた翻案劇で’85年の「十月/マクベス」とは全く違う芝居である。

 そして私の代表作のひとつ26本目「又三郎」である。戯曲執筆にしても公演自体としても思いで深いこの1作からワープロを導入した。東芝ルポのCRT型デスクトップだった。確か展示品割引で99000円だった。ワープロ導入で書き方が変わった。下書きをしなくなったのだ。最初からキーボードに向かった。削除・編集が出来るのが強かった。ただ当時のワープロは不安定でフロッピーに保存し忘れると全てのデータが吹っ飛んだ。フロッピー自体も不安定でこれ以降何度書きかけの原稿を吹っ飛ばしたかわからない。しかし、戯曲を書くスピードは格段に上がった。キーボードのタッチ感が脳に適度な刺激を与える、とどこかの専門家が言っていたような気がする。

 約2ヶ月「又三郎」に取り組んだ。賢治が降りてきていた。集中力が途切れなかったのを覚えている。そして原稿用紙160枚の「又三郎」を脱稿した。

「又三郎」は松本現代演劇フェスティバル(大入り満員松本にファンクラブが出来る)→盛岡→秋田湯沢→鶴岡→新潟(役者が怪我をして私が代役を務めるも台詞を覚えていないので大迷惑、伝説の舞台と言われる)→山形→京都(打ち上げで関西演劇人大喧嘩)→東京(汐留で大サーカステントと張り合った)→名古屋→仙台凱旋公演と2ヶ月半の旅公演で劇団の強力な団結力を培った公演となった。


          


 湯沢公演の特別チラシ。左上、テントの外形がうかがえる。テントは耐用年数を大きく越えたので昨年廃棄処分にしたが、シートだけが残っている。今年の「ノーチラス」には使うかもしれない。

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第七回 人生は変わっていただろうか?

   84年の冬、「十月劇場」は仙台市内中心部の雑居ビルの4階に25坪のアトリエ劇場を開設した。定禅寺通りという今ではJazzフェスや光のページェントで賑わう繁華街で東北一の歓楽街・国分町の近くである。ここでは劇団洪洋社当時の’76年に「愛情劇場」を上演していた。このビルを借りて「演劇工房」という劇団が活動していたが、解散。その後、ずっと空いていたのを借りたのである。確か当時の家賃は10万円くらいだったと思う。これは破格の安さで、東京の演劇人からは羨望の的だった。ここを拠点に「十月劇場」はロングランへの取り組みと、貸し劇場運営に入る。

 そのアトリエ劇場こけら落とし公演は翌年’85年2月、17本目の「じ・えるそみーな」。フェリーニの「道」をベースにした困難な時代に困難な愛を克服しようともがく男女の物語で役者3人を3チームにわけ、15ステージの上演を行った。この千秋楽には客席スペース50名に120名くらい入り、とんでもない状況になった。


        


 そしてほぼ3ヶ月後5月札幌、6月アトリエ公演の18本目「翔人綺想」。この戯曲からペンネームを現在の石川裕人に替えた。理由は今では思い出せないが、やっと自分の作品に自信を持ったのかもしれない。もちろん、この当時はワープロなどない。コクヨの横書き原稿用紙に万年筆で縦書きだった。しかし、これは清書用でまずチラシの裏やダメにしたわら半紙などにとにかく一気に書いていた。一気に書かないとイメージに追いつかなかったからなのだが、(今となっては羨ましい才能だ)だから清書するとき、字がグチャグチャで何を書いたのかわからないこともしばしばだった。戯曲の清書は喫茶店や居酒屋でやっていた。この戯曲は’02年”OCT/PASS”STUDIOファイナル公演で新訂再演している。そのとき戯曲は76本目になっている。この初演時に渡部ギュウ氏が入団、音響オペレーターをつとめた。米澤牛という芸名は札幌公演での打ち上げのとき、ジンギスカンを焼きながら咄嗟に思いついたものだった。今は大成する彼にとっては苦いデビューだったに違いない。


         


 年間3本の公演を打つというのもアトリエを持った強みで私たちは日夜アトリエに通い詰めていた。稽古の休みはなかったかもしれない。あったとしても誰か彼かがアトリエに詰め、自主練をしたり、制作の打ち合わせをしたり、あるいは宴会をしていた。その’85年第3弾は19本目「十月/マクベス」。シェークスピアの「マクベス」を上演しようとする劇団の日々をメタシアター的視点から解体した翻案・構成・オリジナル作である。


          


     
                  (大槻昌之氏撮影)

 次いで’86年大作テント芝居、20本目「水都眩想」。風の旅団からテントを借りて仙台、盛岡、八戸、山形県寒河江と巡った。エホバの証人輸血拒否事件をモチーフにしたアングラ・ファンタジーでる。この芝居は「読売新聞」全国版でも取り上げられ「十月劇場」全国区への足がかりとなった作品でもある。そして私は劇評家・衛紀生氏に妙に気に入られ「水都眩想」で岸田戯曲賞を取ろうと言われた。そのためには演劇雑誌に戯曲を載せなければならないから改訂しろということだった。最近引っ越し荷物の中から手紙の山が見つかった。その中に衛氏のものもあり、「新劇」と「テアトロ」の編集長に話を付けてあるから早く改訂戯曲を私に送りなさい旨の手紙だった。なぜか私はこの話に乗らなかった。生意気だったのである。書き終えたものはそこで終わるというのが私の流儀だった。だから長年再演することをしなかった。それより衛氏の顔をつぶしてしまったわけでもある。しかし、この時もし間違って岸田戯曲賞などとっていたら私の人生は変わっていただろうか。


           


      

                     (大槻昌之氏撮影)


 5月から9月までの断続的な「水都」の旅の後、21本目の「モアレ」場末名画座の人々を12月に上演。前作「水都」でハードな芝居をやったので、ここは得意の映画をネタにしたコメディで’86年を閉めた。そして遂に「十月劇場」は翌年自前のテントを持つことになる。


      



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第六回 「十月劇場」旗揚げ。

 「十月劇場」の旗揚げは1981年である。命名の由来は十月に十人で結成したというしごく単純なものだった。演劇の十月革命をなんていう大志はさらさらなかった。当時、とある会社に就職していた私を含め劇団員全員が社会人と学生だった。つまり芝居は趣味の領域にしておこうという発想だったので年1回公演できればいいというようなスタンスだった。それは劇団洪洋社の失敗からきている。私はそろそろと芝居の再スタートを切った。

 メンバーは洪洋社の最後のめんつがそろった。みんな私の声がけを待っていてくれた。嬉しいことだった。まさか「十月劇場」がその後13年続き、仙台を代表する劇団のひとつになり、全国にも知れ渡る存在になるなんて誰も想像していなかった。それくらい地味な再スタートだった。

 旗揚げ公演は12本目の「流星」、ペンネームは石川邑人。新星を発見するという犬の実話をモチーフにしたコメディで実は宇宙的な出会いと別れをテーマにした壮大な戯曲である。この芝居は’07年に「十月劇場」の旗揚げメンバーでもあった小畑次郎氏の集団・他力舎で再演されている。



スピルバーグの「未知との遭遇」の1シーンをパロったチラシ。


 翌’82年はたった1公演、13本目「ねむれ巴里」。佐川一政のパリ人肉嗜食事件を劇化した。この公演はデパートの企画モノで狭いスタジオで1ステージだけ上演された。旗揚げ2年目にしてたった2公演(実質1公演)だけという体たらく。仙台は劇団IQ150が’80年に旗揚げし人気急上昇中だった。この中心メンバーには洪洋社解散時に在籍していた茅根利安氏がいる。彼は洪洋社を反面教師にした。



 そして’83年から「十月劇場」は徐々に活動のスピードを上げ始めることになる。きっかけは八戸の精神科医でもある演劇人・豊島重之氏プロデュースによる「東北演劇祭」への招聘だった。参加劇団は赤い風(盛岡)、雪の会(青森)、極(札幌)、八戸小劇場、千一年王国(八戸)、「十月劇場」。

 参加作品は14本目「ねむれ巴里」改訂版。前年の同作を大幅に改訂して臨んだ。テーマは越境と解体。とある男に巣食う人肉嗜食への妄想、食べたのか食べていないのかを解明しようとする探偵。川端康成の「片腕」を挿入し、解体される人体への偏愛を描いた複雑怪奇な戯曲。この演劇祭への参加を通じて他の劇団や劇評家との交流が生まれ、ここから全国ネットワークが開通することになる。「十月劇場」にとっても私にとってもメルクマールとなる年だった。



このポスターを見て当時大学生だった石井忍氏(現舞台監督工房社長)が入団してくる。


                (撮影 大槻昌之)


「ねむれ巴里」より。左絵永けい、右小畑二郎氏(当時は二郎)。彼の役は二枚目だったが、八戸の公演では鼻くそをつけて熱演していた。


 ’84年、15本目小畑二郎プロデュース公演への書き下し「ぼくらは浅き夢みし非情の大河を渡るそよ風のようにそよ風のように」16本目「十月劇場」公演「嘆きのセイレーン」人魚綺譚はその後の「水の三部作」の第1弾で大作ロマンだった。この芝居でビルのホールにプールを作って水を張り水中ポンプで滝のような雨を降らせた。それを見た大阪・未知座小劇場の女優から「ビルでプール作るなんてアホやん」と言われ、テント芝居への欲求がつのり始める。この芝居で盛岡で開催された第2回の東北演劇祭へも参加、大好評で終え、東北の演劇人に「十月劇場」を印象づけた。

当時の稽古場は私がつとめていたとある食品会社の工場の2階倉庫だったが、やはり専用の稽古場兼劇場を持ちたいということになる。再スタートを切った私たちの速度と強度が上がり始めた。

ここにきてまだ戯曲は16本しか書いていないが、量産体勢前夜でもあった。



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第五回 地下に潜る

  劇団洪洋社という右翼的な名称は当時愛読していた夢野久作の父親で国家主義者の杉山茂丸の主宰した玄洋社を意識した。字面が固くて良かったのと、洪水の海というイメージも好きだった。そしてどこか大陸浪漫的な響きにも憧れをもった。これは多分に唐十郎師の影響もある。考えてみれば、当時のアングラ系の芝居はどこか右翼的な匂いを放っていたようにも感じる。それは己の肉体という逃れられない捕縛状態に鞭打つ超保守的な思考方法から編み出された演劇論にもよるのだろう。仙台に次々とやってきた当時のアングラ系の芝居者はすべてがやさぐれの気配を漂わせていた。今でも青森で活動する「シアター夜行館」は大八車で旅をし、「走狗」はテント、戸波山文明の「はみだし劇場」はトラックに家財道具を積んで。この劇団を間近に見たり、芝居を観たり、公演の手伝いをしたりしているうちに私も次第にやさぐれていく感じがした。やさぐれる、あるいは流れるといってもいい。この場所から他の場所への脱出は単に地域的なことではなく、肉体からの脱出でもあった。

 記録に残っていないから正確ではないが、1976年だと思う。私たち「洪洋社」は初めてテントに挑戦する。それは東北大学の大学祭からの招待だった。ちょうど「愛情劇場」稽古中だったが、テントはやってみたかったことでもあるし、その申し出を引き受けた。演し物は「異貌の天使の憑肉(つきにく)」歌謡ショーである。タイトルもおどろおどろしいが、歌謡ショーというのも時代がかっている。「月は満月」「失われた都市の伝説」で歌われた劇中歌をメインに芝居仕立てにした。これも唐十郎師と状況劇場の「四角いジャングルで歌う」にモロ影響を受けている。劇中歌の作曲はすべて私である。当時アングラ系の芝居はみんな歌を歌っていた。ブレヒトの影響だろうが、それを方法的に踏襲していたのは黒テントだけで、他はみんなギター1本の演奏だった。

このテント公演に飛び入りして歌を歌ったのが当時大学生だった茅根利安氏で、この後「洪洋社」に入団した。


 私たちは稽古場兼劇場を市内中心部に設けた。向かいに女子高がある絶好の環境だったが、その高校の演劇部員が観に来たことはいっさいなかった。20坪ほどの事務所の天井板をはがしたら屋根の梁がむき出しになり、劇場としていい雰囲気になった。ただ団費は一人1万円を越えていた。当時の1万円だから結構な金額である。しかし、それ以上に私たちは自分たちの稽古場を市内中心部に持てたことで幸せだった。

 1977年に私は3本の戯曲を書いた。9本目「美少女伝」10本目「かげろう夜想」11本目「紅蓮妖乱」である。新稽古場を持ち、張りきっていたことがわかる。しかし、この3本は上演されなかった。劇団員の中に一人どういうわけか反対する人間がいた。ほぼ旗揚げメンバーである。当時は合議制で上演作を決定していたから一人の反対者が出れば上演できなかった。改訂するより新作を書いた方が楽だったので次々と書いてはダメ出しをされるうちにプライベートなことで軋轢が起こった。心身ともに疲弊してきていたが、劇団の代表としてやる気は満々だった。新稽古場での初公演は他のメンバーのオリジナルで私は役者と作曲に専念した。しかし、それは空元気でもあった。



劇団洪洋社第4回公演「ビギン・ザ・バック」稽古風景。信じられないだろうが、右が私である。貧乏だったので痩せ細っている。


 未上演の3本のストーリーやエッセンスは後に新たな戯曲の中に吸収されていくが、それもこの段階では白紙だった。私は精神的に参って来ていた。旅公演の計画も立てたがやれず、団員は減っていく。自ずと団費もじわじわと上昇。経済的にも集団的にも維持が困難になっていた。ほとほと芝居が嫌いになっていた。このままいくと劇団メンバー個人個人も嫌いになりそうだった。’78年宮城県沖地震の年、遂に私は「洪洋社」の解散を決めた。劇団の数人は続けたがっていたが、私のエンジンは動かなかった。

 借りたとき意気揚々とはがした天井板を私たちは張り直した。そしてこの日から4年、私は地下に潜る。アングラ芝居育ちは本当にアングラに帰った。芝居を一切観ないやらない関係も持たない日々が始まる。このときの私に芝居という文字はなかったし、まともな職につくことを考えた25歳の秋だった。


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第四回 劇団洪洋社

 1975年、劇団名「演劇場座敷童子」を「ラジカルシアター座敷童子」と改称。ラジカルシアターなんて今となっては恥ずかしい劇団名だが、当時は大まじめだった。激しく暴力的に芝居の根源まで降りようという意思の表れだった。

 当時、稽古場は東北大学片平キャンパスの空き部屋だった。許可をもらって使っていたわけではない。無許可である。本当にのどかな時代だった。夏場はいいが、冬場はストーブもなかった。どうやって稽古を堪え忍んでいたか記憶がない。でもラジカルシアターだから名前に負けないように頑張ったのだろう。

 ラジカルシアター座敷童子の旗揚げ公演も東北大学のキャンパス内の旧レストラン跡のような所でやろうとした。「夏の日の恋」贋作愛と誠である。これが5本目の戯曲。当時ヒットしていた劇画「愛と誠」をパロディに天皇制を射程にした政治劇だった。その頃私は天皇制に興味を持っていたのでそれがそのまま研究発表のようにして書いたのを覚えている。台本、チラシ、写真など全て散逸している。そしてこの芝居は風雲録そのものである。初日当日最終調整をしていた私たちの元へ2、3名の機動隊員がやってきて不法侵入での上演を中止するように通告してきた。大学当局ではなく機動隊が通告して来るというくらいに大学は自治能力を失っていた。いよいよラジカルシアターはその本領を発揮することになりそうだった。「上演断固続行!!」「表現への国家権力の介入を絶対許さないぞ!!」とシュプレヒコールを上げて闘うはずだったが、腰砕け。しかし、上演を中止するわけにはいかない。私たちは早速上演できる場所を探し始めた。今日の今日である。もちろん上演可能な劇場などない。まして借りる資金さえない。大学キャンパスは会場費が無料だったからやろうとしたわけで。

 そして原町の「原っぱ」という当時の情報発信系の喫茶店が上演を受け入れてくれた。5坪ほどの喫茶店に早速かけつけ最低限の仕込みをやった。店内の椅子やテーブルはそのままだからアクティングエリアはほんの少々。トイレで着替えをやった。現在でいう「杜劇祭」のはしりだろう。「杜劇祭」よりずっと乱暴で猥雑だったが。

 公演を何日やったのかその1日だけで終わったのかももはや記憶の彼方になっているが、観客の中に二人の女子大生がいて、彼女たちが翌年に旗揚げする「劇団洪洋社」のメンバーになり、そのうちの一人が後の絵永けいであり、私の妻になろうなどとは夢にも考えていなかった。

 「ラジカルシアター座敷童子」を創設し、たった1年で「劇団洪洋社」へと歩を進めた。着実な進展だった。メチャメチャなことをやっていたが集団としてのノウハウはきっちり学んでいた。’76年旗揚げ公演戯曲6本目「月は満月」を白鳥ホールで上演。ヴァンパイア伝説と天皇制を掛け合わせた政治風刺劇。そして遂に稽古場を持つ。仙台市の南部向山・野草園の登り口の近辺のこれまた5坪ほどの小さな店舗跡だった。隣が大家さんの部屋だったので防音には気を遣った。しかし、どんな狭く劣悪な環境でも自分たちの稽古場は創造の源である。この場で酒を酌み交わし、談論風発、泊まることもしばしば、女子高生シンパが制服のままでやってきて泊まり込み、「娘を帰しなさい」って親から電話がかかってきたこともある。これじゃまるで新興宗教である。彼女もその後入団することになるのだが。



「月は満月」真ん中が私。二十歳の献血社社長役。こいつらがドラキュラ伯爵に若い血を捧げていた。



「月は満月」。右が絵永けい。(当時は絵永瀬里だったが)現代に生きるドラキュラ伯爵によって吸血鬼になってしまった女。後ろの男は狼男である。奇想天外な物語だった。台本は散逸しているようだ。

 戯曲7本目「失われた都市の伝説」廃都伝序は稽古場公演だった。私たちはこの稽古場をテアトル・デ・ムール(風俗劇場)と名付けた。仙台初の稽古場兼劇場そして12ステージのロングラン公演を敢行した。換気扇もない真夏の劇場内はまるで蒸し風呂で氷柱を置いても終演の頃には全く溶けていた。そんな中劇団メンバーが通っていた飲み屋のママがきっちり和服を着て現れ汗ひとつかくこともなく気丈として帰っていったのを思い出す。この公演は話題になった。話題になって保健所が介入してきた。興業法に抵触するというわけだ。この頃から私たちと法律とのいたちごっこが始まっていた。



「失われた都市の伝説」右が絵永けい。

 それもあり「劇団洪洋社」第3回公演戯曲8本目「愛情劇場」白痴の青春十字路篇は市内中心部に演劇工房という早稲田小劇場直系の劇団が創設したアトリエを使うことになる。そしてこの場所は後に私たちが「十月劇場」となってから借りることになる。この頃には宮城県の芸術年鑑に掲載されるようになっていた。1年に3本も新作をかければ注目を浴びるのは当然だった。

 この「愛情劇場」で役者をやっていた私は上演中に小便を我慢したおかげで急性膀胱炎になってしまった。そのアトリエは楽屋からトイレに行けなかったのだ。なんとか終演まで持ったが、終わったとたん倒れ込んだ私は役柄の色男のメイクをしたまま、つまり白塗りである。市立病院に運ばれた。医師、看護士から笑われた。こっちはそれどころじゃない。医師が下腹部をマッサージしたらちょろちょろとおしっこが出てきた。

 そんなこんな忙しい1年を終わり、私たちは広い稽古場兼劇場を求めて物件を探し始める。しかし、これは私にとって苦難の道のりになることは予感できなかった。
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第三回 仙台初上陸。

  劇団「演劇場座敷童子」を旗揚げし、劇作を開始した頃のペンネームはいしかわ邑(ゆう)だった。現在の石川裕人になったのは’85年である。高校を卒業し、私は意気揚々とドロップアウトを宣言した。
 手始めに本格的劇団を作った。名称はそのまま「演劇場座敷童子」を名乗ったが劇団員を集い仙台での上演を目指すことにした。劇団員は高校当時のメンバーが3名くらい残ったと思う。役者3人なのだから登場人物が3人の芝居を書いた。それが「治療」(’73年)である。アルトーの「演劇と形而上学」にもろ影響を受けた戯曲である。「もし、演劇がわれわれの抑圧に、生を与えるためのものなら、一種の恐るべき詩が、奇怪な行為の数々によって表現されるだろう。」今この本を取り出してみると鉛筆で括弧を書き、線を引っ張り、多くの書き込みがある。この本は唐十郎師の「腰巻お仙」内の「特権的肉体論」と共にこの時代の私のバイブルだった。
 「治療」は最高の患者を求めさすらう医者と看護婦が、その最高の患者を見つけ自分たちのいいようにあしらい、そして最終的に殺してしまうという残酷な不条理劇である。医者をわたしがやった。台本もチラシも残っていないが、チケットだけ残っている。



 デザインは中学校の頃からの旧友・阿部清孝氏。彼はその後数回私たちの情宣デザインをやってくれた。表面は横尾忠則風、裏面はつげ義春風と当時のアンダーグラウンド系での流行のパロディである。印刷は謄写版である。当時は台本も全て謄写版だった。
 「治療」を上演したのは国際ユネスコ会館3F。(現在も晩翠通りに健在)そこの管理人をやっていたのが当時大学生だった伊東竜俊氏である。そして伊東氏と阿部氏はその数年後「ひめんし劇場」という伊東氏主宰の劇団で一緒に舞台を踏むことになる。
 当時仙台には劇場なんてものは仙台市民会館と県民会館、電力ホールくらいしかなかった。もちろんアングラ劇団も小劇場系劇団もなかった。私たちは仙台演劇界の鬼っ子として誕生したのだった。

 その証拠として翌年’74年「演劇場座敷童子」第2回公演「顔無獅子(ライオン)は天にて吠えよ!」を仙台市民会館小ホールで上演した時のこと、「河北新報」に宣伝に行き、記者からけんもほろろに扱われた。他劇団から私たちは全く無視された。市民会館のスタッフも「下手だなあ」とご丁寧な感想を述べてくれた。この時、私は二度と公共の会館なんか使うか!!と思った。しかし、それがアングラへの道筋をはっきりさせてくれたようにも思うのだ。それが翌年’75年の劇団名改称とメンバー総入れ替えにつながる。つまり、劇団員とのつながりを密にすることが作風と集団論の変化を生んだ。


 ’69年発行「ニッポン若者紳士録」(ブロンズ社)。この本には石川セリだの沢田研二だの有名人・無名人600名が掲載されているサブカルチャー系の不思議な本。この仕掛け人も阿部氏である。
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第二回 承前その弐

 初の戯曲を書き下ろすまで風雲はまだ続く。長い承前である。

 高校に入学し、演劇部に入ったものの、そこは新劇の牙城だった。ま、しかし、それは後々そう思うことになるわけだが、時代は騒乱の季節、演劇界はアンダーグラウンドの時代に突入していた。唐十郎の状況劇場、佐藤信たちの演劇センター68/70(後の黒テント)、寺山修司たちの天井桟敷、東由多加の東京キッド・ブラザーズなどなど、新しい手法の演劇が勃興してきていた。田舎の高校生がそのことを知るのは雑誌の情報からだった。東京では面白いことが起こっているなあ、程度の思いだったが、それから1年も経たぬうちに私はそのアングラ芝居の渦に呑み込まれていく。

 まず、’70年10月、センター68/70(後の黒テント)が仙台の西公園にテントを張る。「翼を燃やす天使たちの舞踏」(マルキ・ド・サド作 佐藤信・山元清多・加藤直・斎藤憐構成 佐藤信演出 佐藤充彦・岡林信康音楽)を観る。鮮烈だった。圧倒された。



 そして’71年の1月(?)雪の積もった西公園で状況劇場「愛の乞食」(唐十郎作・演出)を観る。色んなところで書いているが、頭を棍棒で殴られたようなショックを覚えた。唐十郎師と状況劇場との出会いがその後の私の人生の針路を決めた。

 「愛の乞食」を観た翌日に私は演劇部に退部届けを出した。既に1本出演していたが、もう二度とこんな似非演劇なんかに手を染める気は無かったし、黒テント、紅テントから受け取った印象は「なにをやってもいいんだ」という潔さだった。

 よく学校へ行っていたものだと思うくらいに多忙な企画を請け負ったのは高校3年の’72年。既にこの頃、私は大学進学も就職もどちらもしないということに決めていた。かといって芝居をやろうと考えていたわけでもないのだが。のどかな時代呑気な一小僧である。私は東京キッド・ブラザーズの計画に賛同していた。いわゆるユートピア構想で彼らは「桜んぼユートピア」と名乗っていた。鳥取県の私都村(きさいちむら)の土地を買い取り一坪100円で一般の人たちに売っていた。何を隠そうその第1号地主が私である。(恥ずかしい!!)地主証も持っていたがなくしてしまった。そのつながりもあり、キッドの映画を自主上映することになる。「ユートピア」というキッドブラザーズのヨーロッパツアーのドキュメンタリーである。上映する映画館探しから、宣伝、協力者探し、もっとも大事なスポンサー探しはさすが高校生にはやれないから、キッドから制作の女性が来た。あの人なんて言う人だっけなあ?バリバリの制作者だった。ま、田舎の高校生にはなんでもそう映ってしまうんだろうが。



 (空白のマスの中に仙台と印刷したわけですね。)

 会場は昔青葉区の昭和町にあった「昭和館」に決まった。ここは自主上映を中心にかけていた映画館で元映画監督の経営だった。同じ世代の連中もスタッフで関わっていて、後々悪友関係になる奴もいた。

 映画の宣伝のためなにか大きな企画をやろうということになり、寺山修司と東由多加を呼ぶことになった。大者来仙!!寺山さんとは東京へ帰る日に電力ビル西の邪宗門(だったかなあ?)というコタツのある喫茶店で話す機会を得た。「いしかわくんは顔が大きいから座長になれるよ」と寺山さん独特の語調で言ってくれたのを今でも思い出す。なんだか大きい人だったという印象と、目の輝き、そしてサンダル履きの寺山修司のところへ何故行かなかったのだろう?と今でも思うことがあるが、後悔ではない。東さんには「東京に芝居の手伝いに来いよ」と言われたので実際’72年にその通りにした。その通りにしたのはいいが、私はこの時の経験で芝居を仙台拠点でやっていく方向に定めたような気がしている。

 東京キッド・ブラザーズ、そこはドラッグとフリーセックスの城だった。風雲録らしくなってた。演目を忘れてしまったが、東京四谷公会堂で行われた公演のために全国から私のようなキッド・フリークが集い、赤坂の大きな一軒家(ここはキッドの宿舎でもあった)の二段ベッドのある部屋で寝食を共にした。多分4,5日だったと思う。もちろん雑魚寝である。初日からベッドの至るところから男女のもつれあう声が聞こえてきた。いかんせん私の隣は男だったので気まずい思いをしながら背中を向け合い寝た。数日後、このキッド・フリークの部屋で喧嘩があり、奥の部屋から両脇に全裸の女を抱いたゴリラのように容貌魁偉なこれまた全裸の東由多加が出てきて「うるせえぞ!!」と一喝した。一目でラリっていることがわかった。この一件でキッドへの思いは雲散霧消。一人夜汽車で仙台へ帰ったが、高校三年の始業式に間に合わなかった。

 ’71年「死神が背中を触った」が長編処女戯曲である。演劇部を退部し、文化祭での自主参加を目標として「演劇場座敷童子」という劇団を友人とでっち上げた。友人はその後東京キッド・ブラザーズに入ることになる。階段の踊り場をステージに、階段には新聞紙を敷き詰め、照明は演劇部から借りてきた1KWのスポットライト1本のみ。それもコンセント抜き差しだけのバカみたいに簡単なライティングだった。テーマは国家論。どんなことを書いたのか一切覚えていないし、台本も残っていない(と思う)。ただ、白塗りした私と友人の二人芝居で2時間近くやっていたことを覚えている。お客も三々五々入れ替わり立ち替わりで結構入った。みんな呆れた表情だったが。

 ’72年「秘密のアッコちゃん 凶状旅編」が第2作目。高三の文化祭自主参加で劇団員も同級生やら下級生を騙し、10人くらいで上演した。前の年の友人は既に退学していた。これは教室を借り切って状況劇場を意識したドアングラ芝居で、テーマはやっぱり国家論だったような気がする。秘密のアッコちゃんがやくざとして生きていく姿を感動的に描いたような?女子が大挙見に来て大入り満員だった。この時は打ち上げもきちんととりおこない、酒が飛び交った。

 そしていよいよ社会人として(?)入場料を取る劇団へと進化していく。いよいよ承前を終え集団論が射程に入ってくる。益々風雲急を告げる劇作百本勝負はまだ二本目でしかない。
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第一回 承前

 石川裕人劇作100本の道のりを連載する「劇作風雲録」いよいよ本日より開始です。どんな展開になるのか自分でもわからぬアドリブ的書き下ろし。貴重なチラシや写真なども出来るだけ掲載していきます。どうぞご期待を。

 さて、承前である。承前とは本文に入る前の準備体操。劇作家前夜。私がどのような経緯で芝居の道へ入り、劇作をするようになったのか、そのあたりのことをまず書き記そうと思う。

 10歳まで遡る。眩暈がするほど昔のことになる。空にはB29が飛来し、大空襲を続けていた頃だ。もちろん嘘である。「風雲録」だからこのくらいのことがなければ面白くないのだが、歴史まで捏造できない。ただこの国は戦争の痛手から立ち直りつつある頃だった。東京オリンピック前年である。町には三波春男の「東京五輪音頭」が華々しくけたたましく流れ、浮かれ狂っていた。バブルの喧噪なんてものじゃなかった。私は田舎の小学4年生だった。学校は楽しかった。友達との遊びも楽しかったが、担任の先生が美人だったのも楽しい要因だった。越前千恵子さんは先生成り立てホカホカの人で、わたしらのやんちゃぶりに教壇の後ろで泣いていたこともあった。ある日の授業は国語と図工を合体させたもので、粘土細工でキャラクター人形を作り、それを人形劇として発表するまでを3人くらいのグループで行うというものだった。手先の不器用さは子どもの時からで図工は不得意だったが、国語は大好きだった。作文も得意だったので創作劇の台本は書けるような気がした。

 創作人形劇の発表会は大受けだった。そしてその時「ゆうちゃんはシナリオライターになれるわね」と、憧れの越前千恵子先生が言ってくれたのだ。シナリオライターとは何か?その時は全然わからなかったし、何故か質問も出来なかった。その日家に帰り母親に「シナリオライターってなにや?」と聞いたが、わかるわけがない。「ライターの一種だべ」くらいの低レベルの答えが返ってきた。大体ライターさえわからなかった。当時持ってた辞書にもシナリオライターは載っておらず、次の日町に2軒しかない本屋のうちの行きつけ、杉山書店に顔を出し、大人の辞書を引いたらさすがにそれには載っていて「脚本家」とあった。

 この日から私の頭に埋め込まれたシナリオライター、脚本家という職業。

 確か小学校を卒業するまで3本ほどのシナリオを書き、ドラマは校内放送にもなった。

 学校と家との距離は5キロくらいあり、私は自転車で通っていた。行きは友達と一緒だったが帰りは単独で帰ってくることが多かったので、アドリブで連続ドラマを作り何役もやりながらぶつぶつささやいていた。

 中学校に演劇部はなく、不遇の3年間が待っていた。暗黒の3年間のことはあまり思い出したくもない。

 そして高校に入り、待ってましたとばかり演劇部にはいる。いよいよこの時代、初の長編戯曲を書くことになる。夜明けは近かった。

 越前先生は2006年に亡くなった。後で聞いた話だが、先生はご自分のお財布の中に下の記事を挟んでいてくれたらしい。事あるごとに喋る芝居の出自は先生と唐十郎師なのだ。



「河北新報」2003年3月11日
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