石川裕人百本勝負 劇作風雲録

<< April 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
<< 第三回 仙台初上陸。 | main | 第五回 地下に潜る >>

第四回 劇団洪洋社

 1975年、劇団名「演劇場座敷童子」を「ラジカルシアター座敷童子」と改称。ラジカルシアターなんて今となっては恥ずかしい劇団名だが、当時は大まじめだった。激しく暴力的に芝居の根源まで降りようという意思の表れだった。

 当時、稽古場は東北大学片平キャンパスの空き部屋だった。許可をもらって使っていたわけではない。無許可である。本当にのどかな時代だった。夏場はいいが、冬場はストーブもなかった。どうやって稽古を堪え忍んでいたか記憶がない。でもラジカルシアターだから名前に負けないように頑張ったのだろう。

 ラジカルシアター座敷童子の旗揚げ公演も東北大学のキャンパス内の旧レストラン跡のような所でやろうとした。「夏の日の恋」贋作愛と誠である。これが5本目の戯曲。当時ヒットしていた劇画「愛と誠」をパロディに天皇制を射程にした政治劇だった。その頃私は天皇制に興味を持っていたのでそれがそのまま研究発表のようにして書いたのを覚えている。台本、チラシ、写真など全て散逸している。そしてこの芝居は風雲録そのものである。初日当日最終調整をしていた私たちの元へ2、3名の機動隊員がやってきて不法侵入での上演を中止するように通告してきた。大学当局ではなく機動隊が通告して来るというくらいに大学は自治能力を失っていた。いよいよラジカルシアターはその本領を発揮することになりそうだった。「上演断固続行!!」「表現への国家権力の介入を絶対許さないぞ!!」とシュプレヒコールを上げて闘うはずだったが、腰砕け。しかし、上演を中止するわけにはいかない。私たちは早速上演できる場所を探し始めた。今日の今日である。もちろん上演可能な劇場などない。まして借りる資金さえない。大学キャンパスは会場費が無料だったからやろうとしたわけで。

 そして原町の「原っぱ」という当時の情報発信系の喫茶店が上演を受け入れてくれた。5坪ほどの喫茶店に早速かけつけ最低限の仕込みをやった。店内の椅子やテーブルはそのままだからアクティングエリアはほんの少々。トイレで着替えをやった。現在でいう「杜劇祭」のはしりだろう。「杜劇祭」よりずっと乱暴で猥雑だったが。

 公演を何日やったのかその1日だけで終わったのかももはや記憶の彼方になっているが、観客の中に二人の女子大生がいて、彼女たちが翌年に旗揚げする「劇団洪洋社」のメンバーになり、そのうちの一人が後の絵永けいであり、私の妻になろうなどとは夢にも考えていなかった。

 「ラジカルシアター座敷童子」を創設し、たった1年で「劇団洪洋社」へと歩を進めた。着実な進展だった。メチャメチャなことをやっていたが集団としてのノウハウはきっちり学んでいた。’76年旗揚げ公演戯曲6本目「月は満月」を白鳥ホールで上演。ヴァンパイア伝説と天皇制を掛け合わせた政治風刺劇。そして遂に稽古場を持つ。仙台市の南部向山・野草園の登り口の近辺のこれまた5坪ほどの小さな店舗跡だった。隣が大家さんの部屋だったので防音には気を遣った。しかし、どんな狭く劣悪な環境でも自分たちの稽古場は創造の源である。この場で酒を酌み交わし、談論風発、泊まることもしばしば、女子高生シンパが制服のままでやってきて泊まり込み、「娘を帰しなさい」って親から電話がかかってきたこともある。これじゃまるで新興宗教である。彼女もその後入団することになるのだが。



「月は満月」真ん中が私。二十歳の献血社社長役。こいつらがドラキュラ伯爵に若い血を捧げていた。



「月は満月」。右が絵永けい。(当時は絵永瀬里だったが)現代に生きるドラキュラ伯爵によって吸血鬼になってしまった女。後ろの男は狼男である。奇想天外な物語だった。台本は散逸しているようだ。

 戯曲7本目「失われた都市の伝説」廃都伝序は稽古場公演だった。私たちはこの稽古場をテアトル・デ・ムール(風俗劇場)と名付けた。仙台初の稽古場兼劇場そして12ステージのロングラン公演を敢行した。換気扇もない真夏の劇場内はまるで蒸し風呂で氷柱を置いても終演の頃には全く溶けていた。そんな中劇団メンバーが通っていた飲み屋のママがきっちり和服を着て現れ汗ひとつかくこともなく気丈として帰っていったのを思い出す。この公演は話題になった。話題になって保健所が介入してきた。興業法に抵触するというわけだ。この頃から私たちと法律とのいたちごっこが始まっていた。



「失われた都市の伝説」右が絵永けい。

 それもあり「劇団洪洋社」第3回公演戯曲8本目「愛情劇場」白痴の青春十字路篇は市内中心部に演劇工房という早稲田小劇場直系の劇団が創設したアトリエを使うことになる。そしてこの場所は後に私たちが「十月劇場」となってから借りることになる。この頃には宮城県の芸術年鑑に掲載されるようになっていた。1年に3本も新作をかければ注目を浴びるのは当然だった。

 この「愛情劇場」で役者をやっていた私は上演中に小便を我慢したおかげで急性膀胱炎になってしまった。そのアトリエは楽屋からトイレに行けなかったのだ。なんとか終演まで持ったが、終わったとたん倒れ込んだ私は役柄の色男のメイクをしたまま、つまり白塗りである。市立病院に運ばれた。医師、看護士から笑われた。こっちはそれどころじゃない。医師が下腹部をマッサージしたらちょろちょろとおしっこが出てきた。

 そんなこんな忙しい1年を終わり、私たちは広い稽古場兼劇場を求めて物件を探し始める。しかし、これは私にとって苦難の道のりになることは予感できなかった。
- | permalink | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |

この記事に対するコメント

日本で一番人気媚薬ショップ! 100%正規品を保証いたします。 百種類の効果的の媚薬を販売ショップオンライン通販
媚薬 | 2013/01/14 3:04 PM
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://100.oct-pass.com/trackback/9
この記事に対するトラックバック