石川裕人百本勝負 劇作風雲録

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第三回 仙台初上陸。

  劇団「演劇場座敷童子」を旗揚げし、劇作を開始した頃のペンネームはいしかわ邑(ゆう)だった。現在の石川裕人になったのは’85年である。高校を卒業し、私は意気揚々とドロップアウトを宣言した。
 手始めに本格的劇団を作った。名称はそのまま「演劇場座敷童子」を名乗ったが劇団員を集い仙台での上演を目指すことにした。劇団員は高校当時のメンバーが3名くらい残ったと思う。役者3人なのだから登場人物が3人の芝居を書いた。それが「治療」(’73年)である。アルトーの「演劇と形而上学」にもろ影響を受けた戯曲である。「もし、演劇がわれわれの抑圧に、生を与えるためのものなら、一種の恐るべき詩が、奇怪な行為の数々によって表現されるだろう。」今この本を取り出してみると鉛筆で括弧を書き、線を引っ張り、多くの書き込みがある。この本は唐十郎師の「腰巻お仙」内の「特権的肉体論」と共にこの時代の私のバイブルだった。
 「治療」は最高の患者を求めさすらう医者と看護婦が、その最高の患者を見つけ自分たちのいいようにあしらい、そして最終的に殺してしまうという残酷な不条理劇である。医者をわたしがやった。台本もチラシも残っていないが、チケットだけ残っている。



 デザインは中学校の頃からの旧友・阿部清孝氏。彼はその後数回私たちの情宣デザインをやってくれた。表面は横尾忠則風、裏面はつげ義春風と当時のアンダーグラウンド系での流行のパロディである。印刷は謄写版である。当時は台本も全て謄写版だった。
 「治療」を上演したのは国際ユネスコ会館3F。(現在も晩翠通りに健在)そこの管理人をやっていたのが当時大学生だった伊東竜俊氏である。そして伊東氏と阿部氏はその数年後「ひめんし劇場」という伊東氏主宰の劇団で一緒に舞台を踏むことになる。
 当時仙台には劇場なんてものは仙台市民会館と県民会館、電力ホールくらいしかなかった。もちろんアングラ劇団も小劇場系劇団もなかった。私たちは仙台演劇界の鬼っ子として誕生したのだった。

 その証拠として翌年’74年「演劇場座敷童子」第2回公演「顔無獅子(ライオン)は天にて吠えよ!」を仙台市民会館小ホールで上演した時のこと、「河北新報」に宣伝に行き、記者からけんもほろろに扱われた。他劇団から私たちは全く無視された。市民会館のスタッフも「下手だなあ」とご丁寧な感想を述べてくれた。この時、私は二度と公共の会館なんか使うか!!と思った。しかし、それがアングラへの道筋をはっきりさせてくれたようにも思うのだ。それが翌年’75年の劇団名改称とメンバー総入れ替えにつながる。つまり、劇団員とのつながりを密にすることが作風と集団論の変化を生んだ。


 ’69年発行「ニッポン若者紳士録」(ブロンズ社)。この本には石川セリだの沢田研二だの有名人・無名人600名が掲載されているサブカルチャー系の不思議な本。この仕掛け人も阿部氏である。
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