石川裕人百本勝負 劇作風雲録

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第二回 承前その弐

 初の戯曲を書き下ろすまで風雲はまだ続く。長い承前である。

 高校に入学し、演劇部に入ったものの、そこは新劇の牙城だった。ま、しかし、それは後々そう思うことになるわけだが、時代は騒乱の季節、演劇界はアンダーグラウンドの時代に突入していた。唐十郎の状況劇場、佐藤信たちの演劇センター68/70(後の黒テント)、寺山修司たちの天井桟敷、東由多加の東京キッド・ブラザーズなどなど、新しい手法の演劇が勃興してきていた。田舎の高校生がそのことを知るのは雑誌の情報からだった。東京では面白いことが起こっているなあ、程度の思いだったが、それから1年も経たぬうちに私はそのアングラ芝居の渦に呑み込まれていく。

 まず、’70年10月、センター68/70(後の黒テント)が仙台の西公園にテントを張る。「翼を燃やす天使たちの舞踏」(マルキ・ド・サド作 佐藤信・山元清多・加藤直・斎藤憐構成 佐藤信演出 佐藤充彦・岡林信康音楽)を観る。鮮烈だった。圧倒された。



 そして’71年の1月(?)雪の積もった西公園で状況劇場「愛の乞食」(唐十郎作・演出)を観る。色んなところで書いているが、頭を棍棒で殴られたようなショックを覚えた。唐十郎師と状況劇場との出会いがその後の私の人生の針路を決めた。

 「愛の乞食」を観た翌日に私は演劇部に退部届けを出した。既に1本出演していたが、もう二度とこんな似非演劇なんかに手を染める気は無かったし、黒テント、紅テントから受け取った印象は「なにをやってもいいんだ」という潔さだった。

 よく学校へ行っていたものだと思うくらいに多忙な企画を請け負ったのは高校3年の’72年。既にこの頃、私は大学進学も就職もどちらもしないということに決めていた。かといって芝居をやろうと考えていたわけでもないのだが。のどかな時代呑気な一小僧である。私は東京キッド・ブラザーズの計画に賛同していた。いわゆるユートピア構想で彼らは「桜んぼユートピア」と名乗っていた。鳥取県の私都村(きさいちむら)の土地を買い取り一坪100円で一般の人たちに売っていた。何を隠そうその第1号地主が私である。(恥ずかしい!!)地主証も持っていたがなくしてしまった。そのつながりもあり、キッドの映画を自主上映することになる。「ユートピア」というキッドブラザーズのヨーロッパツアーのドキュメンタリーである。上映する映画館探しから、宣伝、協力者探し、もっとも大事なスポンサー探しはさすが高校生にはやれないから、キッドから制作の女性が来た。あの人なんて言う人だっけなあ?バリバリの制作者だった。ま、田舎の高校生にはなんでもそう映ってしまうんだろうが。



 (空白のマスの中に仙台と印刷したわけですね。)

 会場は昔青葉区の昭和町にあった「昭和館」に決まった。ここは自主上映を中心にかけていた映画館で元映画監督の経営だった。同じ世代の連中もスタッフで関わっていて、後々悪友関係になる奴もいた。

 映画の宣伝のためなにか大きな企画をやろうということになり、寺山修司と東由多加を呼ぶことになった。大者来仙!!寺山さんとは東京へ帰る日に電力ビル西の邪宗門(だったかなあ?)というコタツのある喫茶店で話す機会を得た。「いしかわくんは顔が大きいから座長になれるよ」と寺山さん独特の語調で言ってくれたのを今でも思い出す。なんだか大きい人だったという印象と、目の輝き、そしてサンダル履きの寺山修司のところへ何故行かなかったのだろう?と今でも思うことがあるが、後悔ではない。東さんには「東京に芝居の手伝いに来いよ」と言われたので実際’72年にその通りにした。その通りにしたのはいいが、私はこの時の経験で芝居を仙台拠点でやっていく方向に定めたような気がしている。

 東京キッド・ブラザーズ、そこはドラッグとフリーセックスの城だった。風雲録らしくなってた。演目を忘れてしまったが、東京四谷公会堂で行われた公演のために全国から私のようなキッド・フリークが集い、赤坂の大きな一軒家(ここはキッドの宿舎でもあった)の二段ベッドのある部屋で寝食を共にした。多分4,5日だったと思う。もちろん雑魚寝である。初日からベッドの至るところから男女のもつれあう声が聞こえてきた。いかんせん私の隣は男だったので気まずい思いをしながら背中を向け合い寝た。数日後、このキッド・フリークの部屋で喧嘩があり、奥の部屋から両脇に全裸の女を抱いたゴリラのように容貌魁偉なこれまた全裸の東由多加が出てきて「うるせえぞ!!」と一喝した。一目でラリっていることがわかった。この一件でキッドへの思いは雲散霧消。一人夜汽車で仙台へ帰ったが、高校三年の始業式に間に合わなかった。

 ’71年「死神が背中を触った」が長編処女戯曲である。演劇部を退部し、文化祭での自主参加を目標として「演劇場座敷童子」という劇団を友人とでっち上げた。友人はその後東京キッド・ブラザーズに入ることになる。階段の踊り場をステージに、階段には新聞紙を敷き詰め、照明は演劇部から借りてきた1KWのスポットライト1本のみ。それもコンセント抜き差しだけのバカみたいに簡単なライティングだった。テーマは国家論。どんなことを書いたのか一切覚えていないし、台本も残っていない(と思う)。ただ、白塗りした私と友人の二人芝居で2時間近くやっていたことを覚えている。お客も三々五々入れ替わり立ち替わりで結構入った。みんな呆れた表情だったが。

 ’72年「秘密のアッコちゃん 凶状旅編」が第2作目。高三の文化祭自主参加で劇団員も同級生やら下級生を騙し、10人くらいで上演した。前の年の友人は既に退学していた。これは教室を借り切って状況劇場を意識したドアングラ芝居で、テーマはやっぱり国家論だったような気がする。秘密のアッコちゃんがやくざとして生きていく姿を感動的に描いたような?女子が大挙見に来て大入り満員だった。この時は打ち上げもきちんととりおこない、酒が飛び交った。

 そしていよいよ社会人として(?)入場料を取る劇団へと進化していく。いよいよ承前を終え集団論が射程に入ってくる。益々風雲急を告げる劇作百本勝負はまだ二本目でしかない。
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