石川裕人百本勝負 劇作風雲録

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第一回 承前

 石川裕人劇作100本の道のりを連載する「劇作風雲録」いよいよ本日より開始です。どんな展開になるのか自分でもわからぬアドリブ的書き下ろし。貴重なチラシや写真なども出来るだけ掲載していきます。どうぞご期待を。

 さて、承前である。承前とは本文に入る前の準備体操。劇作家前夜。私がどのような経緯で芝居の道へ入り、劇作をするようになったのか、そのあたりのことをまず書き記そうと思う。

 10歳まで遡る。眩暈がするほど昔のことになる。空にはB29が飛来し、大空襲を続けていた頃だ。もちろん嘘である。「風雲録」だからこのくらいのことがなければ面白くないのだが、歴史まで捏造できない。ただこの国は戦争の痛手から立ち直りつつある頃だった。東京オリンピック前年である。町には三波春男の「東京五輪音頭」が華々しくけたたましく流れ、浮かれ狂っていた。バブルの喧噪なんてものじゃなかった。私は田舎の小学4年生だった。学校は楽しかった。友達との遊びも楽しかったが、担任の先生が美人だったのも楽しい要因だった。越前千恵子さんは先生成り立てホカホカの人で、わたしらのやんちゃぶりに教壇の後ろで泣いていたこともあった。ある日の授業は国語と図工を合体させたもので、粘土細工でキャラクター人形を作り、それを人形劇として発表するまでを3人くらいのグループで行うというものだった。手先の不器用さは子どもの時からで図工は不得意だったが、国語は大好きだった。作文も得意だったので創作劇の台本は書けるような気がした。

 創作人形劇の発表会は大受けだった。そしてその時「ゆうちゃんはシナリオライターになれるわね」と、憧れの越前千恵子先生が言ってくれたのだ。シナリオライターとは何か?その時は全然わからなかったし、何故か質問も出来なかった。その日家に帰り母親に「シナリオライターってなにや?」と聞いたが、わかるわけがない。「ライターの一種だべ」くらいの低レベルの答えが返ってきた。大体ライターさえわからなかった。当時持ってた辞書にもシナリオライターは載っておらず、次の日町に2軒しかない本屋のうちの行きつけ、杉山書店に顔を出し、大人の辞書を引いたらさすがにそれには載っていて「脚本家」とあった。

 この日から私の頭に埋め込まれたシナリオライター、脚本家という職業。

 確か小学校を卒業するまで3本ほどのシナリオを書き、ドラマは校内放送にもなった。

 学校と家との距離は5キロくらいあり、私は自転車で通っていた。行きは友達と一緒だったが帰りは単独で帰ってくることが多かったので、アドリブで連続ドラマを作り何役もやりながらぶつぶつささやいていた。

 中学校に演劇部はなく、不遇の3年間が待っていた。暗黒の3年間のことはあまり思い出したくもない。

 そして高校に入り、待ってましたとばかり演劇部にはいる。いよいよこの時代、初の長編戯曲を書くことになる。夜明けは近かった。

 越前先生は2006年に亡くなった。後で聞いた話だが、先生はご自分のお財布の中に下の記事を挟んでいてくれたらしい。事あるごとに喋る芝居の出自は先生と唐十郎師なのだ。



「河北新報」2003年3月11日
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