石川裕人百本勝負 劇作風雲録

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第九回 年間6本書く。

 ワープロ効果はすぐに現れた。ワープロで書き始めた翌年’89年に、年間6本の戯曲を量産することになる。27本目「ラストショー」は山形県寒河江市にあった寒河江映画劇場のために書き下ろした戯曲。古い映画館と映画そして芸能者へのオマージュ劇である。この戯曲には’77年に書かれ未上演だった「紅蓮妖乱」のプロットを援用している。前年「又三郎」でテント全国公演をしているのにこの芝居でも寒河江へ遠征している。もちろん地元の方々の熱い受け入れ体制がなければ出来なかった。28本目は’87年にコラボした小畑二郎氏と今田青春氏が「劇団喜劇城」を旗揚げしたのでご祝儀書き下ろし「コメディアンを撃つな!!」そういえばこの戯曲のクレジットはココ・ロノボス名義だった。そしてここから連続で4本の戯曲を執筆する。これには旅公演も絡んでいた。圧倒的なパワーを劇団も持っていた時期だからできたアクロバットのような日々が始まる。


            


      


 全裸姿ははだか道=小畑次郎氏である。イズミティの小ホールを借りて秘密裏に撮影された。もう時効でしょう。


 29本目「ラストショー改訂テント版」31本目「じ・えるそみーな」〜フェリーニへ〜、32本目「モアレ」〜映画と気晴らし〜は「映画は判ってくれない」という組曲風にした連作ですべての戯曲が同名異曲である。絶対再演はしないというポリシーは逆に我が首を絞めかねないことではあった。そして同じ芝居だと思ったお客さんが来なかったのは誤算だった。「ラストショー」は昭和の終焉と満州映画会社を通底させた歴史幻想戯曲。松本現代演劇フェス→宮城県丸森町→東京鬼子母神→仙台と怒濤の旅公演。「じ・えるそみーな」は’85年の十月劇場アトリエ柿落とし公演作とは全く違う内容。全編フェデリコ・フェリーニへのリスペクトに満ちあふれた3人芝居。「モアレ」はこれまた’86年のものとは違い、映画の構造を演劇的に分析した学術的(?)戯曲。この芝居も寒河江映画劇場で上演された。映画をめぐる3連続公演は8月から12月まで一刻の休みもなく続いた。


 その間に30本目「三島由紀夫/近代能楽集・集」を仙台市市民文化事業団主催の舞台技術養成講座公演用に書き下ろす。絵永けいの一人芝居だった。これが7月なのでこの1年間ほとんど書いていたことになる。今考えるとどうやって乗り切ったのかわからないが、これが大きな自信となったことは確か。’99年にも年間6本ということがあったが年間5本というのは今後ざらに出てくることになる。


         

 

 しかし、このくらい大量に書き、公演もハードだと反動は訪れる。次の年’90年は2本、そして「十月劇場」自体公演を休止した。疲れたのだ。そして今後もこのペースで行くものかと劇団自体が自問自答し始めたときでもある。

 33本目「斎理夜想」は丸森町のイベント芝居のための戯曲でこれには松島トモ子が出演した。

 34本目「あでいいんざらいふ」は石川裕人事務所公演。小説家島尾敏雄の作品をアレンジした絵永けいと小畑二郎の二人芝居で緊張で張り詰めた舞台と観客席の水を打ったような静けさは今でも伝説の舞台となっている。この時期私はテント芝居のようなケレンの芝居から遠ざかろうとしていた。やめようと思っていたわけではないが、「十月劇場」若手陣に誤解を与えてしまうことになる。若手はプロデュース公演でテント芝居「落日」を打っている。外野席には「十月劇場」解散の噂が流れた。


         

 
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