石川裕人百本勝負 劇作風雲録

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第六回 「十月劇場」旗揚げ。

 「十月劇場」の旗揚げは1981年である。命名の由来は十月に十人で結成したというしごく単純なものだった。演劇の十月革命をなんていう大志はさらさらなかった。当時、とある会社に就職していた私を含め劇団員全員が社会人と学生だった。つまり芝居は趣味の領域にしておこうという発想だったので年1回公演できればいいというようなスタンスだった。それは劇団洪洋社の失敗からきている。私はそろそろと芝居の再スタートを切った。

 メンバーは洪洋社の最後のめんつがそろった。みんな私の声がけを待っていてくれた。嬉しいことだった。まさか「十月劇場」がその後13年続き、仙台を代表する劇団のひとつになり、全国にも知れ渡る存在になるなんて誰も想像していなかった。それくらい地味な再スタートだった。

 旗揚げ公演は12本目の「流星」、ペンネームは石川邑人。新星を発見するという犬の実話をモチーフにしたコメディで実は宇宙的な出会いと別れをテーマにした壮大な戯曲である。この芝居は’07年に「十月劇場」の旗揚げメンバーでもあった小畑次郎氏の集団・他力舎で再演されている。



スピルバーグの「未知との遭遇」の1シーンをパロったチラシ。


 翌’82年はたった1公演、13本目「ねむれ巴里」。佐川一政のパリ人肉嗜食事件を劇化した。この公演はデパートの企画モノで狭いスタジオで1ステージだけ上演された。旗揚げ2年目にしてたった2公演(実質1公演)だけという体たらく。仙台は劇団IQ150が’80年に旗揚げし人気急上昇中だった。この中心メンバーには洪洋社解散時に在籍していた茅根利安氏がいる。彼は洪洋社を反面教師にした。



 そして’83年から「十月劇場」は徐々に活動のスピードを上げ始めることになる。きっかけは八戸の精神科医でもある演劇人・豊島重之氏プロデュースによる「東北演劇祭」への招聘だった。参加劇団は赤い風(盛岡)、雪の会(青森)、極(札幌)、八戸小劇場、千一年王国(八戸)、「十月劇場」。

 参加作品は14本目「ねむれ巴里」改訂版。前年の同作を大幅に改訂して臨んだ。テーマは越境と解体。とある男に巣食う人肉嗜食への妄想、食べたのか食べていないのかを解明しようとする探偵。川端康成の「片腕」を挿入し、解体される人体への偏愛を描いた複雑怪奇な戯曲。この演劇祭への参加を通じて他の劇団や劇評家との交流が生まれ、ここから全国ネットワークが開通することになる。「十月劇場」にとっても私にとってもメルクマールとなる年だった。



このポスターを見て当時大学生だった石井忍氏(現舞台監督工房社長)が入団してくる。


                (撮影 大槻昌之)


「ねむれ巴里」より。左絵永けい、右小畑二郎氏(当時は二郎)。彼の役は二枚目だったが、八戸の公演では鼻くそをつけて熱演していた。


 ’84年、15本目小畑二郎プロデュース公演への書き下し「ぼくらは浅き夢みし非情の大河を渡るそよ風のようにそよ風のように」16本目「十月劇場」公演「嘆きのセイレーン」人魚綺譚はその後の「水の三部作」の第1弾で大作ロマンだった。この芝居でビルのホールにプールを作って水を張り水中ポンプで滝のような雨を降らせた。それを見た大阪・未知座小劇場の女優から「ビルでプール作るなんてアホやん」と言われ、テント芝居への欲求がつのり始める。この芝居で盛岡で開催された第2回の東北演劇祭へも参加、大好評で終え、東北の演劇人に「十月劇場」を印象づけた。

当時の稽古場は私がつとめていたとある食品会社の工場の2階倉庫だったが、やはり専用の稽古場兼劇場を持ちたいということになる。再スタートを切った私たちの速度と強度が上がり始めた。

ここにきてまだ戯曲は16本しか書いていないが、量産体勢前夜でもあった。



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